院長紹介

 

1957年富山県富山市に生まれる
1975年富山中部高校卒業
1983年神奈川歯科大学歯学部卒業
1985年川崎区佐藤歯科医院に勤務
1987年南武線平間駅前にて野上歯科医院開業

 

所属学会及び研究会
日本ティップエッジ研究会会員
JIADSCLUB会員
咬合療法研究会会員
フィンランドむし歯予防研究会理事
日本へルスケア-歯科研究会会員etc

 

Tip-Edgeセミナー 矯正セミナー修了
筒井塾  包括歯科臨床コース修了
      咬合療法コース修了
      矯正コース修了
JIADS ぺリオ6か月コース修了
    Implant+アドバンスコース修了
阿部晴彦総義歯シンラシステムコース修了
生田セミナー(歯周内科)修了
東京SJCD  レギュラーコース修了
       原宿マスターコース修了
JFSCP(フィンランドむし歯予防研究会  予防歯科海外研修4回参加
5‐DJapan アドバンスコース修了
ITIインプラントセミナー修了
   カルシテック インプラントセミナー修了
Tip-Edge セミナー修了

 

幼少期から小学校時代

私は1957年1月11日に富山県富山市で生まれました。
実家は小さな製薬会社を経営していました。
父は若い頃とても多趣味で何にでものめり込む人でした。
石を集めていた時期があり、糸魚川という所で翡翠が発見されたと聞くとすぐに飛んでいくような人でした。
それもいつも幼い私を連れて。
私が今でも思い立ったらすぐに行動しないと気がすまないのは、父のこの性格を受け継いでいるのかもしれません。また自分が薬剤師でもあり、かつて医者の道を志していた事もあって長男である私にはとても期待をしていました。

 

周囲の期待もあっておぼろげながらにいつかは勉強して医者を志さなければならないのかなと思っていました。
ところが、身近に医者がいた訳ではなく、医学とはどういうものなのかも全く知りませんでした。
今から思うと、随分と考えが甘いと言わざるを得ません。

小学校時代は勉強もせず、宿題はいつも後回しにしてばかりいる困った子供でした。

学校から帰るとランドセルを放り投げて、愛犬を連れて近くの、神通川までよく釣りに行っていました。

また近所にU君という大親友がいて、毎日のように遊びに行っていました。
彼の父親は飛行機のプラモデルが大好きな人で、強く影響を受けました。
特に第2次世界大戦で活躍した、戦闘機が部屋中に所狭しと並べてありました。


メッサ-シュミットMe109EやフォッケウルフFW190Aを見てドイツらしい武骨なデザインがカッコよく見え、いつかは自分も作ってみたい思うようになりました。


今自分が歯科医師となっているのも、このプラモデル作りと無関係ではないかもしれません。
型を取ってキチッと合わせて、金属を作ったり矯正でブラケットを適切なポジションに着けたりするのは、非常にプラモ作りと似ています。


ただ残念なのは、小学校4年の時にU君一家が引越しをしてしまった事です。
その後プラモデルとは随分疎遠になってしまいました。
また父親はいつも薬を作っているイメ-ジがありましたが、忙しい時間を割いて僕たち兄弟を車で色々な場所に連れて行ってくれました。
当時はまだ自家用車は少なくて友達に随分とうらやましがられたものでした。


映画のALWAYS3丁目の夕日をご存知ですか?
丁度あのような少年時代を過ごしました。
私には娘が2人いるのですが、父親に連れていかれた同じ場所に再び彼女達を連れて行っているのです。
父親に対して反発していた時期もあるのに、不思議なものです。
それでも、小学校時代に勉強したという記憶は殆どありません。
まだのどかな時代でした。
今の子供たちは習い事がたくさんあって、かわいそうだなと思う事もあります。


それともう一つ私が神奈川県という自分とは縁もゆかりもない場所で開業した理由の一つに私自身の強い東京への憧れがありました。
小学校時代の私の友人は何故かU君を除いては、転校生ばかりでした。
その中でも、A君とは直ぐに仲良くなりました。


彼はとても物知りで、小学生なのに、新聞を読んでいて中東情勢の事とか、ビ-トルズの事とか、色々な事を教えてくれました。
また、彼のお婆さんがとても優しい人で、関東大震災での悲惨な体験を聞かせてくれた事を昨日の事のように覚えています。


しかし、彼との別れは突然にやってきました。
あれは1967年の3月でした。
お父さんの仕事の都合で、東京に引っ越す事になったのです。
最後の日の事を覚えています。
あの時私の家は新築したばかりで、2階のべランダの手摺りはぺンキも乾いていない状態でした。


彼はその手摺りにセ-タ-が汚れるのも気にせずにぶら下がっていました。
今から思うと、彼もとても悲しかったのだと思います。
結局、私もさよならが最後まで言えませんでした。
でもいつか東京へ行けば、必ず会えると信じていました。
私の中にある東京への憧れは元々は母親が持っていたものかもしれません。


母親は太平洋戦争中に港区の浜松町にあった共立薬学専門学校(今の慶応大学薬学部)に通っていました。


東京大空襲の時も、疎開もせずに助かりました。
母にその時の事を聞いてもあまり話したがりません。
きっといやな事や大変な事があったのだと思います。
また若い時に東京で働こうかと思った時期もあるようです。
私の心の中にもそういったものが流れているのかもしれません。

 

中学校時代

さすがに中学校に入るとガラッと環境が変わり、遊びほうけていた私もそろそろ勉強しないとマズイ雰囲気になってきました。

1年生の時は基礎が出来ていなかったせいで、成績もあがりませんでした。
2年生の時から塾へ通ったのですが、厳しい先生に仕込まれたおかげで、成績は急上昇しました。
勉強が少しだけ面白くなってきたのも、この時期でした。
また、中学2年の時に東京へ修学旅行に行く機会があったのですが、何としても、小学校時代に仲良しだったA君と連絡を取りたくて、何度も電話をしたのですが、どうしても取れなくてひどく落胆したのを覚えています。

高校受験に向けての忙しさもあって、その後、会いにいく機会に恵まれませんでした。私の中学生時代は今から思うと高校受験に向けての準備に明け暮れた時代でした。

 

高校時代

頑張ったおかげで、県下有数の進学校である、富山中部高校に入学する事ができました。
ところが、1年生の頃はまだしも、しだいに他のことに興味を持ち始めあまり勉強しなくなりました。私の高校時代はアメリカンニュ-シネマの全盛期であり、イ-ジ-ライダ-やバ二シングポイントを見て、それまでのアメリカ映画とは、全く違う結末に衝撃を受けたのを覚えています。
映画監督になる道はないのか?と真剣に考えるようになりました。
映画の原作や三島由紀夫の金閣寺や午後の曳航等を読み漁ってばかりいました。
当然成績は下がりっぱなしです。
両親もとても心配していつもいさかいが、絶えないようになりました。

学校の先生に相談しても、映画監督への道などわからない。少しでも良い成績を取って大学へ行ってから決めればいいじゃないかという答えしか返ってきませんでした。

今から思うと、本当に私が映画監督になりたいのなら、たとえ夢がかなわずに、挫折したとしても、思い切って学校を飛び出すのも一つの生き方だったのではと思います。

しかし、私にはそこまでするだけの勇気はなかった。

学校に残るのなら、全力を尽くして、勉強しないといけなかったのに、中途半端であったと思います。
自分自身を見つめて、周りに流されない事の大切さを学んだ3年間でした。

中学校時代の医者にならなくてはならないという思いはどこかに行ってしまっていましたが、高校3年の半ばになって必死に勉強し何とか、私立の歯科大学に滑り込むことができました。
本来ならば、国立大学へ行って少しでも親の負担を軽くしてあげたいのが、本音だったのですが、両親に救われる結果となりました。

 

大学時代

大学に入学しては見たものの、1年生の授業は哲学やラテン語や自然科学など、歯科とは直接関係のない物ばかりで、全然意欲がわいて来ませんでした。今の私ならば、長い間開業医をやっていると、いかに哲学的な考えが必要なのかも理解できますが、当時の私には無理でした。

本当に腹が据わってくるのは3年生になって専門分野を教わるようになってからでした。

父親に心から感謝の気持ちが出てきたのもこの頃でした。
父は小さい頃から、物を丁寧に作るのが好きだった私の事をよく理解していました。

どうしたら、私の能力の芽が出るのかをいつも考えてくれていました。

そのような過保護な接し方に愚かにも反発した時期もありましたが、親元を離れて、自分の力で多少なりとも生きてみて、初めて有り難味が解るようになってきました。
もう私には、この道しかないと腹を括れるようになったのが、5年生の時でした。

最後の2年間はテストの前には必死で勉強しましたが、いつも真面目に授業を聞いている連中にはかないませんでした。
しかし、自分の力で努力すれば何とかなるという自信を得た最後の2年間でした。

 

勤務医時代

この後の進路に関しては当時色々な選択枝がありましたが、これ以上親に金銭的な負担を掛けられないという気持ちが強く、勤務医を選択しました。
今なら別の選択をしたかもしれません。

例えば薄給だとしても、矯正の技術を身につけるために何年間かを犠牲にしたりとか、開業医ではできない事(例えば、留学等)へのチャレンジを選択したかもしれません。
ひとつの職業を極めるのはとても難しい事だと思います。
本来ならば一代だけでなく、何代も続かないとわからない事もあると思います。
またこの時、密かに心に決めていた事がありました。

それは基本的な技術を身につけたら、なるべく早く開業する事と郷里へは帰らないという事です。
この事はとても両親をがっかりさせたとは思いますが、心の中から湧き出てくる情熱にはどうしても逆らえませんでした

どこかに自分の力だけで勝負してみたいという気持ちがあったのだと思います。
また不思議な事に私の人生には、迷ったり行き詰まったりした時に必ずといっていい程、救世主が現れるのです。

これはまた後でお話しますが、結婚したいと思っていた時にたまたま今の家内が実家の事務所に薬代を届けに来て、知り合うきっかけになったりとか、どこに勤務しようか迷っていた時に私の大学の先輩の友人がたまたま医局長をしていて、その人の紹介ですんなりと就職する事ができたりとか、偶然とは思えないような幸運に恵まれています。

1人で色々な事を経験してみると私は今まで必ずといっていい程、誰かに助けられながらここまで来ることができたというのが正直な気持ちです。

開業した場所も勤務医時代に先輩に物件を紹介してもらいました。
場所を下見に行く時も一緒に来てアドバイスをしてくれたり、歯科医師会への手配から挨拶まで何から何までお世話になりました。

 

開業を目指し〜開業〜そして今思うこと

開業地を決定するに当たっては、川崎市で開業する事は最初から決めていたので、平間に決定するまでに、鹿嶋田の駅前の商店街にある物件や上平間の住宅地の物件、中丸子のテナントや向河原の駅前のテナントビルまたは、少し範囲を広げて武蔵小杉の駅周辺の商業ビル、下平間の一軒家に至るまで、それこそ足を棒にして、何日もかけて、徹底的に見て回りました。

その結果、見つけたのが平間駅前の当時建築中であった今の物件です。

その甲斐あって、平間駅前に位置するという便利さから向河原にあるNEC様や苅宿にある三菱ふそう様に勤務されている方々。又は東京都大田区、下丸子方面からガス橋を渡って通勤されているキャノン本社様にお勤めの皆様にも当医院を広くご利用して頂いており、大変感謝しております。勿論、地元である平間商店街及び、市ノ坪住宅の皆様には個人的にも大変親しくして頂いております。

今あらためて開業当時を振り返り考えると、私なりの充実した開業医人生を送ってこれたのは、忍耐強い患者様のご協力と家内を始めとしたスタッフの支援の賜物とあらためて感謝している次第です。

私は、例え偶然であろうとも、人との出会いを大切にして行こうといつも考えています。
ここで、みなさんに、これまでの院長生活の節目節目に出会った私の大切な方の話を少し聞いて下さい。

その方は、川崎市で開業しているK先生です。
彼はまだこれ程予防が普及していなかった10年以上も前からフィンランドへ直接出向いて本場を自分の目で直接見てきた人間です。
たまたまマンションの隣の部屋に住んでいた縁で家内が奥様と知り合いになったのがきっかけでした。
彼はこれから来るであろう予防を中心とした歯科医療について熱く語ってくれました。

しかし、その時の私は全く聞く実耳をもたず、前に一歩踏み出す事ができませんでした。
その時の私の頭の中には診療を休む事のデメリットしかなかったのです。
実際にフィンランドに行くまでに2年かかったのですが、やはりもっと早く行くべきだったと後から後悔しました。
現場に行ってその場所の空気を吸わないと解らない事が重要だと気付きました。
結局その後フィンランドには4回行くことになるのですが、行くたびに新しい発見がありました。
K先生は結果的に救世主のように私の進むべき道を指し示してくれました。
実はその前にカ-ネギ-へ行ってからのほうがいいと言われて、これも素直に聞く事ができました。ひねくれ者の一面がある私が素直に受け入れる事ができた理由は彼が本物であり、自分の進むべき方向にブレが全くなかったからだと思います。

よく要領が良いとか悪いとか言いますが、惑わされてはいけないと思います。
一見要領よく切り抜けたつもりでも、後から考えると大切な事に気付かなかったり、いつも要領よくすり抜けることは人の恨みを買う事にもつながります。

また直接利益を生まないように思われる事が後で大きな利益に繋がる事があります。

私たちの仕事というものは、歯科を通じて患者様に大きな幸福感をもたらす事によってなにがしかのお金を受け取って始めて成り立つものなのです。
順序を逆にしてはいけません。
その事をK先生は多くを語らずに教えてくれました。

歯科のプロとしてあらゆる技術の研鑽を積む事はとても大切な事です。
目の前の患者様がインプラントや矯正治療を望まれたとしても、スキルがなければ、

どうする事もできない訳ですから。
事実私も9年間延べ800時間〜1000時間近く歯科の技術系の講習会に参加して、これからも自分の技術の足りないところは、補っていかなくては、と思っていますが、いくら講習会に行ってもどうにもならないのが、人間性です。

自分の欠点は自分で気付いて、直していかないといけません。
また自分の周りをイエスマンで固めても、自分は気分がいいとは思いますが、医院はダメになると思います。
自分に対して正しい忠告をしてくれるのが、良いスタッフであり、リ-ダ-になるべきです。

医院の中では、耐えず医院が時代と共に成長して行く為に、切磋琢磨していないといけません。
野上歯科医院のレべルは私以上には決してならないのです。
当たり前の事なのですが、なかなか気付きませんでした。
そして気付いても、すぐに忘れてしまうという事です。
忘れないために、毎朝朝礼をし、繰り返し巻き換えし、ミ-ティングを行って全員で問題意識を共有する事が大切なのです。

これからも仕事を止めるその日まで、忘れてはいけないのです。
いや、例え仕事をやめても命があるかぎり続けなければいけないのかもしれません。

 

近況

最近私はこの大切で大好きな仕事をいかに長続きさせるかを考え、その基本となる体と心の健康作りに着手しています。
というのも、私は、大田区のキャノン本社や、白洋舎下丸子店で有名な下丸子から平間駅まで徒歩で通勤していますが、最近は時々思考を変え、自転車で、ガス橋を通りながら、たまには、平間保育園の前をわざと遠回りしてみたりしています。気が向けば、平間公園から、川崎工業高校の脇を抜けていく事もあります。また桜の咲く季節には、近くの二ヶ領用水まで足を延ばして、桜を見てから出勤する事もあります。何故かいやな事があったり、イライラする事があっても、不思議と気持ちが落ち着いて、リフレッシュする事が出来るのです。

昔はジンクスを大事にして、いつも同じ道をわざと通ったりしていたのですが、最近ではわざと一度も通った事のない、橘高校の前を通過してから、大回りして、帰る事もあります。

長く仕事を続ける為には、ちょっとした工夫も必要だと思います。

 

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